「これが最後です」
「あぁ」
頷き、差し出された束の紙をまとめて受け取る。
早速目を落とせば、束の一枚目には『ノディオン街道の整備状況に関する報告』の文字。
躊躇いなく表紙をめくり、なるべく早く、だが細大漏らさず読み進める。
……最後まで目を通し、一つ頷く。
取り上げた羽ペンで末尾にサインを書き入れ、印を押す。
めくられた書類を元の状態に戻し、控えていた部下に返す。
「お疲れ様でした」
書類に不備がないか自身でも確認しながら、部下――イーヴは言った。
「本日のご公務はこれで全て終了です。他に何か御用はございますか?」
「エヴァに、明日のトードの刻にここに来るよう伝えてくれ。あとは特にない」
「かしこまりました」
きびきびと答えるイーヴを横目に、羽ペンをペン差しに戻して立ち上がる。
すかさずマントを差し出すイーヴ。
「これからのご予定は?」
「ない。部屋に戻って寝るだけだ」
「そうですか」
頷くイーヴの顔に、かすかな苦笑が滲んだ。
思わず眉根を寄せる。
「どうかしたか?」
「いえ」
だが言葉とは裏腹に、その笑みはますます深くなるばかり。
声もまた、いつもの事務的な口調ではなく、どこか楽しげに聞こえた。
「すみません。笑うつもりはなかったのですが。ただ、少し変わられたなと思いました。それだけです」
「変わった? 誰が?」
「エルトシャン様がです」
「私が?」
軽く驚いた。勿論そんな自覚はない。
だが、
「はい」
イーヴははっきりと頷いてみせた。
「以前は、ご公務終了のお時間などお気になさりもしなかったでしょう? 時間内にご予定を全て終えられても、査察に行くなどご自分で仕事をお増やしになられる始末。休養休暇のいずれもほとんどお取りにならずに働きづめでいらっしゃいました。ですが最近は、仕事がお済になられると、そのまままっすぐお部屋にお戻りになられます。休暇もきちんと取ってくださるようになりました」
「そうだったか? 気づかなかったが」
「えぇ。……それと……」
「? まだあるのか?」
「はい」
頷く声は、もはやはっきりと弾んでいる。
喜びに近しい感情が、その表情に見え隠れしていた。
「最近はこうして、ご公務とは関係のないお話もなさいます。これも以前はありませんでした。いい意味で肩や表情から力が抜けていらっしゃるようで、時に穏やかな表情もなさっておいでです」
「……そうか」
『いい意味で』ならば、それは歓迎すべきことなのだろう……そう思ったから、それだけを答えた。
――内心の疑問を隠すため、マントを腕に掛けたまま、優秀な部下に背を向ける。
放つ声にも、気を張るよう努めて。
「部屋に戻る。後は頼むぞ」
「お任せください」
おやすみなさいませと続けるイーヴの声を背に、振り返ることなく扉に向かった。
それから数日後。
エルトシャンは、妻グラーニェと一人息子アレスを伴い、馬で遠乗りに出かけた。
「少し遠出したいです」
不意に生まれた休暇。その使い道を彼女に尋ねた結果がこれ。
ノディオン街道を西に進み、途中枝分かれした道を北に向かう。マッキリー城が見えてくる前に道からそれて丘を登れば、国境を形成する深い森のちょうど端にぶつかる。
そのまま森を迂回したところで、エルトシャンは馬を止めた。
既に陽は南天の頃合。燦々と注ぐ柔らかな日差しの下、雄大で美しいアグストリアの大地が眼下に広がる。
気まぐれな風が緩やかに弧を描き、家族三人の髪を一様に揺らす。
「いいお天気ね」
いつものようなドレス姿ではなく、まるで下町の娘のような軽装で、グラーニェがはしゃいだ声を上げる。
丘の裾野を見下ろす位置まで歩き、まだ赤子であるアレスを抱えたまま、ゆっくり二回深呼吸。
そして、
「うーん、気持ちいい。あなたもなさったらいかが?」
最後に一つ伸びをした後、振り返り様、いつものようににっこりと微笑んだ。
が、当のエルトシャンの返事はといえば、
「それよりも、具合はどうだ? 馬の背に直接乗るなんて初めてだろう」
「心配性ね」
くすくすと笑みを漏らすグラーニェ。
「ここまで来る間も、ずっとそう思ってらしたんでしょう? 揺れが少ないようにってスピードを落としてくださってたの、気がついてましたよ」
「お前は人より体が弱いんだ。気にしないわけにはいかないだろう」
それに……と続けそうになった言葉は、口にせずに飲み込んだ。
女を背に遠乗りしたことなどないのだからなどは、言わずともいいことだから。
幸い、グラーニェにも気づかれなかったようだ。
「大丈夫です」
いつもと何ら変わらない、穏やかな微笑。むしろ、心なしかいつもより顔色がいいようにも見える。
が――
ふと、彼女の声の調子が変化した。
「仰るとおり、乗馬は初めてでした。それどころか、こんなふうによく晴れたからってどこかに出かけることも、あまり出来ませんでした。出かけたいと言っても、親が許してくれなくて」
「……そうだろうな」
「えぇ。だから私、風がこんなに気持ちいいものだってことも、たぶん今まで知りませんでした」
腕の中の赤子を抱えなおし、差し出された小さな手にキスした後。
どこか複雑そうな、けれど多分に喜びを滲ませて、彼女は続けた。
「乗馬している間、首をくすぐる風が気持ちよかった。あれが、あなたがいつも感じてらした感覚なんですね。あなたがいなかったら、きっと一生分からなかった」
「…………」
「だから、嬉しいです」
本当に心から嬉しそうに、グラーニェは笑う。
まるで少女のように、それは無邪気で。
「あなたもお疲れのはずなのに、こうしてお誘いくださったこと、お城から外に連れ出してくださったこと、今ここにこうしていられること……あなたと一緒にいられること。それだけで、たまらなく嬉しいです」
「……そうか」
ふっと微笑みながら、思わずそう呟いて、
――自身の言葉に、かすかな既視感。
改めて探らずとも、それはまだ記憶の表層に存在した。つい先日の話だ。
数日前、仕事を切り上げようとしたところで、イーヴと交わした短い会話。
『いい意味で肩や表情から力が抜けていらっしゃるようで、時に穏やかな表情もなさっておいでです』
「……そうか」
こういうことだったのか……そう思ったら、知らず繰り返していた。
あの時覚えた疑問の答えが、ようやく分かった。
――もし、イーヴの言うように、自分が変わったのだとしたら。
その理由は、きっと、
(……お前か……)
アレスに髪を引っ張られて困ったように笑っているグラーニェの姿を、眩しげに目を細めて見つめる。
微笑を苦笑に歪め、それを誤魔化すように、彼女の真似をして伸びをする。
大きく息を吐き出し、振り返る。
「これからどうする?」
「勿論。決まってるわ」
髪を引っ張られて首を傾けたまま、グラーニェはくすりと笑った。
「もうお昼ですもの。お弁当にしましょう」
「ねぇ、あなた」
「なんだ?」
食事を終え、アレスが泥だらけになって丘で一人遊びする様をただ眺めているだけの時間。
不意にかかった声に、傍らを振り向く。
そうしてみて気がついたことだが、同じように大地に腰を落ち着けていたグラーニェの視線は、エルトシャンでもアレスでもなく、二人の間に置かれた剣に注がれていた。
呟くような言葉。
「この剣――ミストルティンを振っているところ、ここで見せてくださいませんか?」
「……どうした? 急に」
「以前から見てみたかったんです」
視線が絡む。
にこりと笑う。
「いろんなあなたを見てみたいんです。お城の中の様子は存じていても、外のことは知らないことも多いですし。お城では剣を振るってなんてくださらないでしょう? ですからここでと」
「私の剣は見世物とは違う。面白くなどない」
「そのあなたの剣が見たいんです」
「……分かった」
不承不承、剣を手に立ち上がる。
それに気づいたか、アレスが不意にこちらを見、「ぱ?」などと呟いた。
邪魔をしないようにとアレスをグラーニェに抱えてもらった後、エルトシャンは剣を抜いた。
剣にも型は存在する。全ての技の基本。線より円を重視した、無駄を一切省いた動きの集大成。
機能重視のため、華美などという言葉とは無縁。本来は人に見せるためのものですらないのだから、それは当然のことだろう。
が、極めれば――そして行う人間によっては――その完成された曲線運動はどこかしら舞いのように見えなくもない。舞いの基本もまた円の動きだからである。
エルトシャンが見せたのも、そうした型の一つだった。
正眼から下段へ、はたまた八相から左斜め下へと、次々に繰り出される斬撃の数々。時に強く時に緩やかに、剣舞と呼ぶには多少無骨な舞踏が続いた。
ほうっと息を吐きながら見つめるグラーニェの腕の中――アレスは目を真ん丸にして、そんな父の姿を見ていた。
いつもはやんちゃな彼が、何一つ身動きすらせず、その動きを見つめていた。
赤子の無意識に刷り込まれたその型が、やがて彼が剣を持つときの基本となったことなど、両親は勿論知る由もなかった。
アレスが遊び疲れて眠ってしまった後、家族はそろって帰路についた。
――その途中……
「…………」
馬が大地を蹴る音に混じり、背後から聞こえたかすかな寝息に、エルトシャンは愛馬に止まるよう指示した。
程なく止まった馬の背で、背中を動かさぬよう努めて振り向いて……
思ったとおりの姿を見、苦笑が漏れた。
エルトシャンの腰に回した手の力はそのままに、背にもたれている妻もまた、息子同様に眠りに落ちていた。
無理もない。遠出すらあまりしたことがない人間があれだけはしゃいだら、こうなることは必然だろう。
(もう少し体力をつけるように言ったほうがいいな)
規則正しく繰り返される吐息。
自身の背に伝わる彼女の体温を感じ、自然に穏やかな微笑を浮かべながら、
……エルトシャンはぽつりと言った。
「今度は……エバンスにでも誘ってみるか」