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月下香

「殿下……」
躊躇いの理由は動揺。
動揺の理由はいたわり。
そしていたわりの理由は……彼が私の重鎮である以前に、知己の仲であるからだろう。
――だが、それもほんの刹那。
「どうかお早く、貴方だけの方を」
頭を下げ、彼は言う。言い難くとも。
絶対の信頼を置く重臣達ですら――いや、だからこそ、彼らは言う。私を傷つけないように、やんわりとした言葉を選んで。
それが、他でもない私のため……彼らはそう心得ている。そう心得ているから、実行する。
「分かっている」
よく分かっている。彼らの言い分。自分のすべきこと。
子を成し世継ぎを育てることは私の義務。神の血を引く子を成すこと……それを放棄すれば、自らの血と神に反することになる。光の眷属はなおのこと。ナーガの魔法は、世の平和の象徴に必要不可欠なものだ。
大いなる力には責務がある。
逆らうことは許されない。

けれど……

(シギュン……)
ふと、彼女の笑顔が脳裏を焼いた。
ただそれだけのことで――世界を構成する全ての物が、その色彩を一度に失くす。
彼女の差し出す手に引かれるまま、私は記憶の海へと落ちる。
バイロンの声すら、彼女が私を呼ぶ声の前では、意味を成さない。耳に届かない。

そこに待つ結末を知らないわけではなかったけれど。
それでも、彼女と共に在るというだけの誘惑に、私は勝てなかった。

手に入らないと分かっていて、私は彼女に近づいた。
勿論最初は、彼女を手に入れるつもりなど毛頭なかった。私が彼女に引き合わされたその時……既に彼女は、別の男の隣にいたのだから。いや、それどころか、彼女を婚約者と紹介するために、男は私に彼女を引き合わせたのだから。
それなのに、私は彼女に魅せられてしまった。
胸の内に覚えた欲望の灯り――私は理性を総動員して自らそれを戒め、そしてそうしなければ動揺を隠せなかった自分に愕然とし、彼女を一瞬で愛してしまったことを改めて思い知らされた。
「美しき花嫁に、ナーガの神の祝福を」
作り笑いを浮かべてそう告げる自分の声が震えているようで、怖ろしくすらあった。

ヴェルトマー公爵の婚儀から一年、私は彼女に会うことがなかった。
ただ過ぎていくだけの時の流れは、ある意味で辛く、またある意味で救いでもあった。
このまま時が流れていけば、やがてこの想いも風化する。そうすれば別な女性に恋をすることも出来るだろうと、そう思っていた。
他人のものである女性に想いを寄せるなど、バーハラ王家にあるまじき醜聞。……だがこのまま彼女に会うこともなければ、それは誰にも知られることなく、終わりを迎えることだろう。
――そうしなければならないと、自分に言い聞かせて日々を過ごした。

それなのに、
彼女は再び、私の前に現れてしまった。

バーハラにあるヴェルトマー公の別邸に、当主夫妻が訪れていると――そう風の噂に聞いた、とある真夏の夜。
ひっそり届けられた一枚の手紙を握り締め、私は彼女と会った。
城を抜け出すなどということに慣れてすらいなかった体が酸素不足を訴え、乱れた呼吸を繰り返す私に、彼女は「大丈夫ですか?」と尋ねた。
それには答えず、感情を押し殺した声で「何の御用ですか」と聞き返した。

月が青白く輝く下、熱気を孕んだ風になびく銀糸の髪は、妖しいまでに美しく。
伏し目がちな薄紫の瞳は、まるで人の心を捕らえて離さぬ魔性の宝石のようで。
何事かを言い難そうにして影をつくったその表情が、私の心を鷲掴みにした。

――そして、
私が私であるために、決して聞いてはならなかったその言葉は、

「私……貴方を一目見たあの日から、貴方のことが忘れられなかった」

胸の奥が、ドクンと強く脈打った。
それは、封じていた欲の獣が、長き眠りから目覚めた音。
彼女を、彼女の全てを欲する心が、歓喜に打ち震えた音。

気がつけば、彼女の体を腕に抱き、その唇を唇で封じていた。
腕の中、彼女が身を硬くした気配があった。
――が、やがてその腕が私の背中に回り、彼女自ら口付けを求めてきた。
貪るような長い長いキスの後……名残を惜しむように透明な糸が引かれたその口で、私は言った。
「もう……離せない」
「いいわ。離さないで」
「貴女は夫がいる身でしょう?」
「なら、どうしてキスしたの?」
「貴女が私を誘うから」
「そうよ。私が貴方を誘ったの。夫のことは好きだけど、アルヴィスもとても可愛いけれど……でも、貴方のことを愛しているの」
「後悔しませんか?」
「しないわ。だから貴方も後悔しないで。するなら、今すぐ私を捨てて」
「しません」
言葉は途切れ、またキスになった。
激しい口付けの後、呼気荒い彼女の耳に唇を寄せ、「愛している」と囁いた。
もう、気持ちを抑えることなどできるわけがなかった。
彼女を抱いたこの道の先に、幸せなどありえはしないと、よく分かってもいたけれど――

「…………」
ゆっくりと目を開けて、深く息を吐き出す。
意識が現実へと戻り、世界が色彩を取り戻し、回復した五感が「殿下?」と尋ねるバイロンの声を聞き取る。
軽く目を閉じ、すぐにまた開く。
「分かっている……だから、これが最後の我侭だ」
我ながら女々しいものだと、自嘲気味に笑いながら。
それでも……どれだけ格好悪くとも、諦める事も出来やしない。
全てを背負って失踪した女に、全てを背負わせてしまった男が出来る、たった一つの事。
贖罪と呼ぶにも義務と呼ぶにも軽すぎる……単なる私事。
「もう一年。これだけは譲れない」
一縷の望みをかけたカウントダウン。
贖罪でも義務でもない。
ただ、男の意地にかけて。
「一年の間に、私はシギュンとの子を探す。きっと……探し出してみせる」

貴女のために……などとは言わない。言う資格も、私にはない。
――ただ、一つだけ望むことが許されるなら。
どうか、これだけは、
願わせてほしい。
(私が、貴女との子に会えるように――祈っていてくれ)

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