仕事が年度末進行中で、深夜時間外がえらいことになってます。
職場で朝日を拝むのは、何度やっても嫌なものです。
明るいと眠れない人間なので、ふらふらで帰ってもあまり寝つけずすぐ起きてしまうんですよね。
さておき。それでも、3月11日は実家に帰り、14時46分には南に向かって黙祷しました。
南。実家から見て、津波が襲ってきた海の方向。流されて亡くなった叔父が住んでいた方向。
黙祷を終え、仏壇に線香を捧げて、少しだけ感傷に浸りました。
あれから一年。
早いやら遅いやらはわかりませんが、一年が過ぎてようやく、当時は当たり前すぎて気づけなかったその異常さを振り返ることができるようになりました。
無我夢中で過ごした最初の一週間。疲れが出た半月後。サイトで生存報告できたのは三週間後だったと、過去の記事を読み返してみて思い出したりもしました。
被災地にあるとある小学校の卒業式で、校長先生が送辞の中でこう言ったそうです。
「あの時の辛さを思い出せば、この先どんな困難があっても乗り越えられる」
ただ、自分が忘れないように。
当時は詳しくは書けなかった私の体験を、もう少し詳しく書いておこうと思います。
2011年3月11日、金曜日、14時46分。
当時も年度末進行中で、翌日の土曜日には某システムのリリースを控え、私は職場で仕事中だった。
免震構造の建物は一般的な耐震構造とは揺れが異なり、大きくゆっくり揺れるのですが。それがあってもなくても、とても大きく、長い揺れだった。地震の多い宮城にあっても、初めて体験する大きな揺れだった。
揺れの間に、ばちっと部屋中に音が響いて、停電した。
椅子から立ち上がって窓辺に行こうとして、直立できなくてふらついて。デスク伝いに窓辺に辿り着いたときに、ようやく揺れが小さくなった。
周囲はお寺さんが多いのですが、正面に見えたお寺の瓦が落ち、灯篭が倒れているのが見えた。でもまだそんなに被害らしい被害は見えず、「こんなもんか」と思った。
宮城県沖地震。生まれてこの方いつか必ず来ると言われ続けていたから、大きな地震とあっても、多分それかなくらいにしか思わなかった。
実際は、とんでもなかった。
職場には補助電源が常設してあって、程なく回復した電気で、管理してるシステムが正常なことを確認した。
その合間に執務室にテレビが持ち込まれ、映された映像は、想像を超えていた。
私が最初に見たのは、海とは相当に離れた仙台空港が、大量の瓦礫を含んだ津波に呑まれる映像だった。
職場の人みんな、言葉を失った。
その頃になってようやく、「家と連絡がつかない」という声がそこかしこから聞こえ始めた。
私も家族の様子が気になって、何度か母や兄弟の携帯にかけてみた。
関東にいる兄や弟には全然繋がらないのに、3月11日の夕方と3月12日の朝方、宮城の沿岸部にある実家の母にだけは繋がった。
電波がほとんどない状態のため、総じて携帯の電池の消耗が激しかった当時。長く話せたわけではなかった。
でも、その時言われた言葉は、今もちゃんと覚えてる。
「今津波が来てる。一階は完全に駄目」
「お父さんが、津波が来る前に叔父ちゃん家の様子を見に行ったまま戻らない」
そして、
「しばらく帰ってこなくていいから。自分が生きることだけを考えなさい」
私は職場は仙台だけど、当時はまだ実家暮らしで、電車で仙台まで通勤していた。
地震と津波で帰る手段を失い、暫くはそのまま職場や友人宅に居候して過ごした。よほど酷い顔をしていたのかどうなのか、多くの人たちに心配されて、「いいから休んでろ」と言われることがままあった。
物流の滞った仙台は、飲料水の類はどこも完全に売り切れ。なのに必ず酒だけが売れ残っていて、ちょっと笑った。
実家に帰ることができた3月16日まで、幸い食べ物に困ることはあまりなかったんだけど。一番困ったのは着替えがなかったことかもしれない。
大多数の人が困っていた「お風呂に入れない」は、正直、私にとっては割とどうでもよかった。衣食住が安定しなかった私にとって、そこの重要度は割合低いものだった。
3月12日朝の電話を最後に、実家の様子が分からなくなった。
ようやく電話が繋がった兄弟や親戚に、父の安否不明を伝えるのは、精神的にかなりきた。
周囲の心配の弊害で、基本的にすることがなくて、テレビやネットにかじりついて情報をかき集めたけれど。結局、自分で家に戻って確かめるまで、ほとんど何も分からないままだった。
地震から5日後の3月16日。職場の先輩のご厚意で、実家近くまで車で送ってもらえることになった。
とにかく、ようやく様子が分かることが嬉しかったけど。どんな結果が待っているか分からないから。兄弟には「地元戻れることなったから帰る」とだけ連絡を入れた。
周囲の方々から持たされた食料を、借り物のバッグ一杯に詰め込んで。一も二もなく帰った地元は、一言でいうと、灰色だった。
重い曇り空の下、前日の雨で冠水した道路。ヘドロを含んで灰色に染まった大量の水が、実家への道をいっぱいに満たしていた。
当然、躊躇いなく突っ切って帰った。泥で見通せない足元に側溝があったことに気づかず、二回ほどコケて膝を打った。後で見たら内出血で真っ黒だった。
そうしてまで辿り着いた実家。
最初の印象は、人が住んでいるとは思えなかった。
母が手入れしていた庭は、自分の背丈よりも高くまで積み上がった瓦礫と、どこからか流れてきた小屋に埋め尽くされ、道など皆無。
確かに二階は無事に見えるけど、人の気配は感じられなかった。
隣に住んでる方がたき火をしていたので、躊躇いながらも「ここ人いますか?」と尋ねた。
すぐに返ってきた言葉は「いるよ。先生もいるし」だった。
「先生」。
歯科医師だった父の、地元での呼ばれ方だった。
思わず「お父さんいるの!?」と叫んでいた。
瓦礫をよじ登って超えた先の玄関で、約一週間前から代わり映えのしない父が扉を開けてくれた。
その一言目が「帰ってこなくてよかったのに」だった。
「何言ってんだ、そっちなんか行方不明扱いになってんぞ」と答えといた。
実家にいたのは両親と、家が流されて避難してきていた叔母。
電気のつかないこたつに足を入れていた叔母に、お土産のみかんを手渡すと、「あらー」と嬉しそうな顔をした。
その日の部屋の温度は2度。暖房もないため、上着を羽織って、ラジオ以外の情報がない面々に仙台で仕入れた情報を伝えた。
3月11日からの習慣で、辛い話は全部知らない振りをして、面白いことばかりを話した。
その日の夜は、5日振りに熟睡した。
元々周囲に敏感で、常に眠りが浅い私。なのに何度か地震があっても目が覚めないほど、泥のような眠りだった。
3月20日まで実家で過ごし、その間に仙台と地元の間でバスが運行を始めたので、月曜日から出勤した。
再び仙台で根無し草になった私を見かねたらしい上司のご厚意で、約10日ほど、上司の家に居候させてもらった。
直後、胃腸炎で寝込んだ。
地元でやられたんだろうな、と心から思った。
一方で、マンスリーマンションを契約し、入居したのが4月の頭。
ネットで生存報告したのは、ちょうどその時。
以降は、物流の回復し始めた仙台で適当にお土産を購入して、地元に帰っては家族や親戚に届けてた。
寿司とか酒とか焼き鳥とか饅頭とか、割と嗜好品ばっか頼まれて。被災地に向かうというのに焼き鳥抱えてくのなんて私くらいじゃないか、と思ったりもした。
そんな逸話は、今となっては職場での恰好の笑い話。
......と、最初の一か月はそんな感じだった。
当時は自分でも結構頑張ってた気がしてたんだけど。
こうして書いてみると、やっぱり、人に助けられていた部分が大きかったなぁと思う。
心無い人に会わなかったわけでもないんだけど。まぁ、当時はいろいろと余裕がなかったのも確かだし。ていうか、そういう中で、心ある人のほうが圧倒的に多かったほうが意外なことかもしれないし。
総じて、書いてみて思ったこと。
忘れちゃいけないのは、震災でぶつかった困難よりも、その中で受けた人の恩かもしれないね。